本日の産経新聞の記事で、日本保守党の百田尚樹代表の発言が取り上げられていました。
『日本保守党の百田尚樹代表は10日の記者会見で、広島、長崎への原爆投下を巡り、昨年と今年の平和祈念式典に参列した際の印象について、原爆を投下した主体が明確に語られていないことに違和感を示した。式典で「上空で一発の原子爆弾が炸裂した」と表現されることについて「まるで自然災害のように扱っている。原爆は勝手に破裂しない。トルーマン米大統領が命じ、米軍兵士が実行した。主語がなければ、歴史の一番大事な所を覆ってしまう」と指摘した。』
皆さんはどう思われるでしょうか。恥ずかしながら私自身、これまで広島や長崎の平和祈念式典に直接参加したことはなく、テレビニュースで市民代表が献花する様子や、報道用に要約された市長のあいさつを耳にする程度でした。
つまり、メディアの報道をそのまま受け売りし、自分で深く考えずに意見を誘導されていたと言われても否定できない状況でした。
この反省を踏まえた上で、今回改めて考えさせられたのは、「誰が原爆を落としたのか」という事実が式典などで曖昧にされてきた点です。これまでは無意識のうちに「米国に配慮して、誰が投下を命じたのかを明確に問うのは避けた方がよいのではないか」という思い込みに陥っていたのかもしれません。
こうした傾向は、平和式典だけでなく日本の歴史教科書にも表れています。投下の事実や悲惨さは語られても、誰がどのような決断で投下したのかという「主体の意思」については、どこか客観的で淡々と流されがちです。
では、当事国である米国の教科書ではどう記述されているのでしょうか。生成AIのGeminiに尋ねてみました。
それによると、米国ではトルーマン大統領が投下を指示したことだけでなく、「米兵の犠牲を減らし早期終戦を迎えるため」といった投下の決断理由が明記されているとのことです。さらに最近では、投下を正当化する論理だけでなく、それに対する批判や反対意見、倫理的な問題点についても触れられるようになってきています。
当事国である米国でさえ主語や背景を明確にして議論していることを考えると、日本の式典や教科書における「まるで自然災害であるかのような扱い」には違和感を覚えざるを得ません。
相手の気持ちを慮(おもんばか)って主張を抑えるのは日本の伝統的な美徳かもしれません。しかし、この「日本方式」の配慮は、主語や主張を明確にする国際社会においては意味が通じないものです。平和式典においても、「歴史の事実」を客観的に踏まえた上で、世界に向けてどう行動してほしいのかを具体的に発信していくことが重要ではないでしょうか。
数十年にわたり執り行われてきた式典だからこそ、形式化やマンネリ化は避けたいところです。 ウクライナや中東などで緊迫した情勢が続き、核兵器使用のリスクすら囁かれる現代だからこそ、今の時代に即した明確なメッセージを式典から世界へ示していくことが求められていると感じます。













