昨日の毎日新聞夕刊のコラム「憂楽帳」は、次のような内容でした。
筆者が最終面接で男性役員から「うちは女性、要らないんだよね」と言われた経験から始まり、初の女性首相である高市首相への批判が綴られていました。米トランプ大統領に身を寄せられても嫌がらず隣で跳びはねるなど、古い価値観や社会の「空気」に過剰に適応する政治姿勢に息苦しさを感じているようです。コラムでは、それが少数派の女性政治家として模索した末の「サバイバル術」であると理解を示しつつも、理不尽の温床になる価値観をアップデートするよう求めていました。
これを読んで改めて、初の女性首相に対する批判は相変わらず厳しいなと感じました。
大半の女性は、高市首相を良い意味で支持していると思います。しかし、一部の女性、特に女性運動の活動家からは、このコラムのように「期待外れだ」という声を聞きます。
私は、こうした批判に違和感を覚えています。
というのも、高市首相について語る際、多くの人が批判一辺倒のコメントをしているように感じるからです。
社会生活においては、性別に関係なく様々な壁があるものです。例えば会社組織でも、苦手な上司の下で否応なく指示に従わなければならないことや、時にはお世辞を言って立ち回らなければ、乗り切れないこともあります。
それは政治の世界でも同じです。たとえ男性の首相であっても、党内の全員がしっかり支えてくれるわけではありませんし、官僚がすんなりと首相の意向通りに政策を推進してくれるとは限りません。初の女性首相である高市首相は、「女性である」というだけでも、男性首相以上に政策実行への抵抗が大きいと推察します。
そのような立場の首相に対しては、批判的な言葉を投げかけるのではなく、どんどん支援の声を上げた方が良いのではないでしょうか。特に女性の権利を主張する人たちこそ、そうするべきだと思います。
言ってみれば、高市首相は政治という分野で女性陣の先頭に立ち、意図せずとも女性の活躍の場を広げようとしている存在です。彼女の政権運営がうまく進めば、「女性でも国のトップとしてきちんとやれる」という認識が社会に広まります。批判的な意見ばかりを述べるのは、味方を後ろから撃つような行為に思えてなりません。高市首相の歩みが前進すれば、間違いなく女性の活躍の場も広がっていくはずです。
















